能動的情工場

詩を載せています 感想、文句、暴言はコメント欄にてお待ちしています

1

 放課後。いつもの教室である。神村は何をするでもなくただ座っていた。先の“いつもの”には複数の意が潜んでおり、一日の時間半分を捧げて生活する教室、神村の周囲の席を占拠してスマホゲームに興じている仲間、その仲間達からさほど近くはない所から発せられる甲高い奇声などが挙げられる。無論、木偶の坊と成り果てている神村が今現在座っている椅子もそうであり、窓からその座標に向かって差し込んでかかる西日の光もそうである。つまるところ、“いつもの”としか言いようのない光景なのだ。

「マルチしようぜ、折角フレンドなったんだしさー」

 如何にも柔道部です、と語りかけるような坊主の持ち主、飯山のお誘いを神村はあっさりと断る。毎日同じ答えを繰り返しているにも関わらず、それでも迫ってくるあたりこの男は新興宗教を布教するのにうってつけの人材であろう。直ぐに人の文言を馬鹿正直に信じ込むあたりも含めて適しているかもしれない。そんな事を考えつつ、黒いカバンから使い込んだノートとこれまたページが嗄れた生物の教科書を取り出した。ノートを開き、あからさまに太字で主張されている単語を硬めのシャーペンで赤子の肌を撫でるように薄くなぞる。もっと言うならば、なぞる、以外の行動を起こす気はない。そもそも用具を引っ張ってきたのは勉強をする為ではなく、飯山の勧誘を拒否しなければならない理由作りをしたかったからである。これで坊主を誤魔化せるのならば、それに越した事はないのだ。

 

 ただ、別にこれは単に飯山が単純だからという訳だけで騙せている訳ではない。高校3年、最終学年を喰らおうとする受験という名の大きな怪物はもう半年少々でやって来る訳で、それは当然のことながら神村を初めとする3-Cの面々の一部も例外ではないのだ。神村が敬愛する大人気RPGのように言い回すと、怪物に対抗する唯一の手段として、学力と言う名の刃を磨かなければならないと言ったところか。であるからして、放課後の自由時間になっても教室に残って自習を進める、というのは何ら不自然な事ではないだろう。

 

 さらさらと、流れるようにシャーペンでなぞる。横の窓からはセンチメンタルな光が差し込む。そんな風景を俯瞰的に想像して、神村は自分に陶酔する。もう殆ど何時ものルーチンに近い。“いつもの”環境で、“いつもの”行為をする。こう書くと退屈に聞こえてしまうかも知れないが、神村にとってはその退屈が心地良かった。目を閉じまた開く度に環境が変化する、激動の青春を送っている17歳には平穏の時間が必要なのだ。極端な話、この時間が無かったら木偶の坊になる機会は睡眠時しかない。日中の全てが動的になっていたのなら、とうに押し潰れている筈だった。

 

「そういえば、体育祭の役割分担、結局どうなったんだよ?」

 右横でスマホの中に映る大玉を転がしていた--正確には、引っ張って“ハンティング”していた--桜井が指を止め横顔の左側を見つめた。唐突の質問に神村は痛い所を突かれたような顔になり、存在の意味を成さなくなっていたシャーペンを置き、顔の前に人差し指を交差させバツを作った。

「大体は終わったんだよ。みんなの出してくれた希望も全部その通りにした。だけどさ、まだ出してくれてない人がいて、何というか、その--」

「向井か?」

 淀み切った神村の口がその名前を出す前に、飯山が真実を看破した。

 

--体育祭実行委員、という役職は大半の高校に存在する。毎年のように開かれ、毎年のように最大級の盛り上がりを見せるイベントに向けて、リーダーとして在籍するクラスのメンバーを、特に3年生の実行委員はその軍団に所属することになる下級生を一つにまとめて引っ張っていく。全てはその日の栄冠を勝ち取る為に。この息苦しい大役を率先して引き受けよう、という暑苦しい勇者は中々出てこない為、大半の教室ではくじ引きをして神様に選んでもらうことになる。3-Cもその一つだ。そして、神村は天からの祝福を授かることとなってしまったのであった。

 選ばれし者が最初にやるべき事、それは平民達をどの立場に就かせるか、という一点に尽きる。幸いここの神は独裁的では無かったので、平民達の声に耳を傾けて、発せられた要望を最大限尊重するようにした。例えば、オリジナルのキャラクターを描くのが趣味である桜井は軍団のTシャツを製作し、目立ちたがり屋で声を枯らしたい飯山は応援団長のポジションに就くことができた。事実、割り振り作業はある一人を除いて順調に進んでいた。

 

 --向井 樹。中性的な名前だが、れっきとした女子である。“記憶の限り”では痩せていて、身長は160cm前半ほどだろうか。物静かで、空き時間はスマホか文庫本を眺めていたような印象がある。

「あの人、最近教室に来てないよな。そろそろ2週間位は経つんじゃないか」

 桜井がスマホをスリープさせて、使われていないロッカーの方を向き、ぼんやりと眺めた。

 

 向井は6月の初め頃から教室に姿を見せていない。いや、稀に学校でその姿を目撃する事はあるが、保健室やその周辺の廊下以外で見掛けることはない。発見の情報が流れるのも週に一度くらいであるから、不登校に片足突っ込んでいると言っても差し支えない。神村が役割の希望アンケートを実施する直前の頃から休みがちになっていたので、神村自身から直接アンケート用紙は渡せず、担任が向井本人に説明し、書き込み、期限までの提出をお願いするよう手渡したとのことである。しかし、期限を超過した今でも用紙は返ってこず、神村の実行委員としての活動はこの一件で停滞してしまっているのだ。

 

「余ったとこに入れて良いじゃんか一人くらい。出さない奴が悪いんだよ」

 ずっと黙って耳を傾けていた赤城が物臭く口を開いた。赤城の言葉に飯山も頷く。--事実、そうである。要望を提出しないのなら、こちら側で決めてしまえばいい。そもそも、向井以外の全てのクラスメイトに役職が割り振られた今、空いている係は一つしかないのだ。一見すると直ぐにでも解決出来そうな状況だが、神村が躊躇している理由を側近の三人は明確に感づいていた。

「Tシャツには入れないでよ。めんどくなるじゃん。他の女子達が騒ぐよ絶対。」

 いつの間にか席ではなく机に腰をかけていた桜井が赤城の言葉に反応して、その短い両足を宙にぶらつかせた。

 

 シャツの柄を一からデザインし描く、その手作業をクラスの人数分--四捨五入して40枚ほど--繰り返す。その凄まじく面倒な内容からTシャツ係は恐らく人が集まらないだろうと当初から見越していたが、神村の見立て通り最後まで定員が埋まらなかった。仕方がないのでいつも群れて行動している仲良し女子グループの3人を半ば無理矢理に異動させ、空席は残り一つとなった。--今振り返ると結果的に此の決断は明らかな悪手となってしまっている。

 

 --向井はいじめを受けている。最初は何人かの陰口で収まる小規模なものだったが、日が経つに連れエスカレートしていった。しばしば向井の机には汚らわしい罵倒が落書きされるようになった。当たり前のように無視され、何時しか向井に話しかける女子はいなくなっていた。その一連のいじめの発端であり、今もなお中心人物となっているのがその馴れ合いグループの3人、という訳だ。

 いじめが起こっているという事実は神村を始めとする男子にも伝わっていたが、皆が皆その状況を変えようとは動かなかった。決して向井を憎んでいる訳ではない。ただ、面倒くさいだけなのだ。いじめの現場に赴き、ヒーローのようにいじめっ子を追っ払う、その行為が英雄ではない只の一般人にとってどれほど困難で厄介な事かは皆これまでの17年で否が応でも分からされている。勿論、直接ヴィランと戦う以外の方法が無い訳では無い。担任に告発するのが最も手っ取り早いかもしれない。しかし、この考えの無意味さは少し考えればすぐに理解出来るだろう。--担任はいじめの事実を既に知っているからである--まだ他にも方法はあるのだろうが、簡単に思い付くものではなく、何よりそれぞれの進路に向かって必死に踠いている3年生は只でさえ自分の事で手一杯であり、また不安なのだ。そのような精神状態では弱者を助けるという思考に至らないのもある種当然の事であるどころか、いじめの光景は安心出来る教室に不穏な空気を流す分かり易い要因として捉えられるようになった。実に不条理な事であるが、本来叩かれるべきである主犯格の3人はそれほど周囲からの槍玉に挙げられる事はなく--活発的で、容姿も半端に良いからだろうか--“被虐者”である向井は“第三者”であるはずの男子の一部からも、心の中で密かに疎まれることとなってしまった。飯山や赤城、当然ながら桜井もその内の一人だった。

 

 結局、今日も有効な手立てが無いまま、門限10分前を告げるオルゴールが鳴った。神村は完全に骸となっていた勉強道具一式をカバンに詰め込み、四人揃って足早に教室を出た。

 正門から飛び出したのは19時を回るか回らないか、ギリギリのタイミングであった。神村はすっかり目が死に切った赤城と桜井に向かって軽く手を振り、そのまま別の帰路に着いた。一方の飯山はと言うと、まるで今までずっと寝ていたかのようにピンピンと横を歩いている。部活を引退してから程ないとは言え、この体力には驚嘆せざるを得ない。

「あんま重く考え過ぎんなって。テキトーにやりゃ良いんだよテキトーに」

 “テキトー”にやれたらやってるよ、と心では思ったが返さない。飯山が気遣って言葉を掛けてくれる事を神村は知っていたし、その心配り自体が嬉しいのだから内容は正味なんだって良い。単純で馬鹿だが、その分純粋で優しい。神村はそんな飯山が好きだった。

 たわいもない話--たわいもない故、何を話していたかは覚えていないし、覚える気もない--をしている内に駅が見えてきた。学校から家までの距離がある神村は電車通学だが、神村ほど離れていない飯山は駅前のバスターミナルを利用して学校に通っている。飯山と長い一日を労い、別れ、神村はひとりになった。

 

 前を見れば、東口から大量の人間が放たれている。会社の消耗品として健気に働くサラリーマンの方々の表情には虚無という言葉がよく似合う。如何にもな格好をして喧しい笑い声を立てる金髪の男達は、恐らくお水を売りに向かうのだろう。そして、部活帰りの高校生達も目に映った。ペアルックの制服の二人は草臥れたような、しかし確かな充実を得たような顔つきで会話をしている。今の神村にとってこの人の波はノイズでしかなかった。思わず息継ぎをするかのように顔を上げ、天を仰いだ。6月の15日、夏至はもう直ぐの事、ようやく落日がその姿を潜めようとしている。