能動的情工場

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 朝日。いつもの自室である。向井ははっきりと目を覚ました自分を恨み、布団に頭を入れ潜伏した。先の“いつもの”には複数の意が潜んでおり、一日の大半をここで浪費する部屋、壁にもたれかかっている綿の詰まった仲間、その壁の向こうから微かに聞こえてくる母親の声、などが挙げられる。無論、抜け殻と成り果てている向井が伏せているベッドもそうであり、その上の窓から差し込んでくる朝日だってそうである。つまるところ、“いつもの”としか言いようの無い光景なのだ。

「起きなさい、はよ起きなさい、今日は学校行くんろ?」

 ノックもせずにドアが開いた。母親の声である。向井は布団の中で身を竦ませる。

「もう、下田先生待っとるって。保健室で良いから行かんと。」

 母親の声色からはいつにも増して焦りというか、悲哀に近い感情が伝わってくる。向井はその声に圧せられて、ようやく布団から抜け出し、重い身体を起こした。こんな早い時間に起きたのはいつぶりだろうか。

「良かった、偉い。よし、早うご飯食べて準備して。」

 しょぼくれた瞼を開けてみると、明らかに安堵している母親の顔が映った。一先ずの僅かな安心と同時に、この期待を裏切ってはいけない、という大きな緊張が向井の身体に伸し掛かり、前に歩もうとする足を確かに重くしていくのだった。

 

 朝食は食べなかった。別に食欲が無い訳ではなく、心身が共に健康だった頃からのいつもの事象である。母親の軽自動車--ホンダ・NBOX--の後部座席に座り、窓を眺めながら揺られている向井の目にランドセルの列が飛び込んできて、すぐに抜き去った。

 思えば、小学生の頃から引っ込み思案だった。誰かのリーダーにはなりたくなかったし、選ばれる事もなかった。昼休みは大抵図書室にいて、みんなと体を動かすのは体育の授業ぐらいだった。ただ、みんなの事を苦手としていた訳ではなく、同様にクラスメイトも向井の性格を個性として認め、仲間の一人として受け入れていた。人並みに会話も出来たような気がする--今となっては、美化された想像の範疇でしか無いのだが。

 風向きが変わったのは中学生の頃である。他の小学校から入学してきた沢山の“仲間たち”との交流は、向井にとって至難であった。小学校の同胞も次第に外様の皆様と打ち解けていき、孤立とまでは行かないまでも、周囲の人間からは確実に距離を取った応対をされた。三年間という時間は、思春期真っ只中の向井に疎外感という感情を植え付けるには充分過ぎる時間であった。

 そして今、高校--この有様である。何故私は此の期に及んで人目を避けなければいけないのだろう。何故人目を避けなければ生きていけない私に育ってしまったのだろう。ボロ雑巾の様に虐げられた向井の怒りの矛先は、そのいじめっ子達にではなく弱い自らに向くようになった。行き場のない怒り、悲しみを自らを傷つける事でしか表現、解放出来なくなっていた。

 

「大丈夫かい、着いたよ」

 どうやら、嫌な回想に浸っている間にも車は高校に到着したらしい。スマホのロック画面は9:30を示している。一時間目が始まった頃合いだ。向井は身を隠しつつ、車窓から生徒がいない事を確認しゆっくりとドアを開け、後ろから聞こえてきた、いってらっしゃい、という言葉を無視して、これまた恐る恐る地面に足をつけると、そそくさと正門までの10Mを一気に走った。下駄箱のロッカーに朝を共に過ごした靴を入れて靴袋からローファーを取り出し、履き潰さない程度のスピードで足を入れた所で、周囲を見回してみると、授業のない先生が二人ほど横並びで歩いているだけだ。向井は無自覚の内に止めていた息を吐き出すと、自らの惨めさに深く絶望した。ここに居ない敵を幻視して戦うその姿は信じ難く滑稽であり、何かしらの病名が下されても可笑しくない行動であった。

 

 保健室の奥にひっそりと佇む相談室、6畳程度の密封された部屋が向井の城だ。部屋には小窓が一つ、中央に置かれた横長のテーブルを挟んで二つのパイプ椅子がある格好、さながらドラマでよく見る取調室のような装いである。向井は奥のパイプ椅子に腰掛け、肩掛けのカバンから筆記用具だけを取り出し、担任が来るまでじっと壁を見つめていた。この部屋で籠城するのはかれこれ四回目になる。変わらないといけない、と焦燥する心とは裏腹に、向井の身体はすっかりこの状況に慣れてしまっていた。

 

「おはよう、樹さん」

 ノック三回、微笑みながら入ってきた担任に向かって小さくお辞儀をする。瞬間、両肩が強張るのが分かった。下田先生--新卒だからだろうか、エネルギッシュで、真面目で、優しい人だと思う。ただ、今の向井にはその朗らかな優しさが重荷に感じられた。一方、対岸の椅子に座った先生の手には何枚かのプリントが握られている。クラスLINEに入っていない--即ち、誘われていない--向井が3-Cの近況を知る為には先生から配布されたプリントを読む他なかった。向井は先生の説明に合わせて一枚ずつプリントをぼんやりと眺め、近況を知るその度に自分から遠くかけ離れた世界で起こっている出来事のような気がした。

 

 「それでさ樹さん、少しだけお願いしたい事というか、出来たらやってほしいな、というのがあるんだけど」

 ひとしきりプリントについて話した後に、先生が身を前に屈めて向井の目を見つめた。意図せず合った目線に耐えきれず思わず顔を下に逸らす。その端正な顔立ちでまじまじと見られたら、同性の向井であっても動揺してしまうのも頷ける。すぐに視線を戻し、次の言葉を待った。

「体育祭の役割分担の紙、樹さん出してなかったよね。それで樹さんさ、もし良かったら今日の午後に神村くん連れてくるからさ、ちょっと二人で相談して決めてほしいんだよね」

 終わった、と思った。側から見れば何が終わったのか理解できないだろうが、この時確かに向井にはこの世界の全てが邪悪な物に思えた。神村くん--よりにもよって話した事も殆どない、しかもクラスでも中心に位置しているような男子がこの聖域に立ち入り、二人きりで顔を合わせて喋る。考えただけで身体が震えた。紙切れ一枚さえ提出していればこんなことにはならなかったのに、と自分の不精さを悔いた。同時に、この提案を負い目もなく出してきた悪魔に対しての怒りさえも湧いてきた。なんとしてもそのような事態は止めなければ。向井はこの日一番の声で反論した。

「空いている所でいいですよ、どこでもいいです」

 悪魔はそう言うと思った、とでも言いたげな顔をしている。怪訝そうにしている向井の顔を見てから、下田が続きを語り出した。

「Tシャツ係が一人空いてるの。だけどね、そのー…他のメンバーの中にさ、森さん達がいるんだよね」

「森さん達…」

「そう、それはやっぱり嫌かなーって思ってさ、担当の神村くんと相談してみて決めてみてほしいなって感じなんだよね、神村くんも事情知ってるし」

  森朱莉、その名を聞いただけで気が滅入ってしまう。呪われろ、とも思う。あの人の存在自体を表面上だけでも記憶から抹消していたいから、このタイミングで名前が出た事に酷く動揺した。成る程、どちらにせよ試練が待ち受けているわけだ。--どういうわけか、体育祭の準備及び当日に“参加しない”という選択肢はこの時点で消え失せていた--同じ地獄なら先に経験しておいた方が良い、向井の心には殆ど投げやりにも似た勇気が芽生えていた。

 

 下田は最後にも爽やかな笑みを浮かべ、扉の向こう側に消えた。そして、密室は再び静寂に包まれた。聞こえてくるのは換気扇の音、掛け時計の針音、残るは向井のため息だけである。向井は10分前の自分に酷く後悔していた。無理もない。向井にとって、あの選択は“どっちにしたいか”ではなく“どっちがしたくないか”、完全なる消去法での決断であった。そして、向井自身が第三の選択を選ぶ事などは比較的容易だった筈であった。弱者の立場を逆手に取り、泣き叫ぶ、喚く、逃げ出す…感情を爆発させれば先生も無理にはさせないだろう。此の期に及んでプライドを捨てきれない自分が情けなく思った。ふと小窓の外を見れば、体育着を着た男女の集団がグラウンドを周回している。6月の17日、夏至はもう直ぐの事、太陽は嘲笑うかのようにその姿を光らせている。